Fate/stay night [Heaven's Feel] 第二章 lost butterfly感想 ~足し算引き算で残ったもの~
もう第一章公開から季節が一巡したのだなと年の瀬を過ごしながら、平成最後の年。まずはFate/stay night [Heaven's Feel] 第二章 lost butterfly公開、おめでとうございます。
この大不況かつアニメ会社が資金がショートして潰れていく中、更には下を見れば放送延期に現場の吐血が見える映像のアニメすら世に出る中で無事に二章にこぎつけ、その瞬間に自分がファンとして居合わせることが出来たのは奇跡だと思います。
第一章、初めて映像化される桜ルートを映像として大胆に新規シーンを盛り合わせながら再構成し順調に滑り出した今作。第二章、ありがたいことに一般公開よりも先に新宿バルト9で行われたイベントで拝見することが出来ました。ありがとうボブ。今度エドモン・ダンテス一緒に吸おうな。
初めて見た感想は、圧倒的な映像美と迫力で「ああ、あんなに凄かったFate/zeroももう7,8年前なんだ。今は違うんだ。」ということでした。
放送当時まだ高校生の私がまだ学生をやっているバグはさておき、Fate/zeroやTV版UBWを見て「自分もこんなアニメを作りたい!」と思った若い人がこのアニメを作っているんだなと思うと胸が熱くなりますね。
アニメーションを制作したufotableはTYPE-MOONファンにとってはずいぶん長い付き合いの会社で、それがこの映画では遺憾なく発揮されていると思います。また監督、キャラクターデザイン、総作監の須藤友徳氏はスタッフとして関わる以前からのTYPE-MOONファンで、特に桜が好きともっぱらの評判で制作発表時「須藤さんが監督なら安心だ」と話題になったものです。その期待を大きく上回り第一章は自他ともに認めるFate好きのめんどくさいオタクたちを黙らせ素晴らしい出来でした。
特に「鍵」を効果的に使った演出は、この会社、この監督だからこその演出だと思いました。ディープなオタクは存じてると思いますが、衛宮士郎というキャラクターの原型は「空の境界 第五章矛盾螺旋」に登場する臙条巴から流れを汲んでおり、作中「鍵」が重要な項目として彼の物語が描かれます。
須藤友徳氏は空の境界アニメプロジェクトでは通してキャラクターデザインを勤められており、またこれらの通な設定に通じたオタクならではのオタクが喜ぶ使い方でした。私もオタクなので好きです、はい。
中学生の桜が「鍵」を受け取った直後、目に光彩が戻り初めて笑顔を見せてくれる。「鍵」は二人の帰るところでもあり、文字通り桜の心をこじ開ける「鍵」という重要な役目を担っています。
お恥ずかしながら時間がなく原作と第一章のお浚いをしてから臨もうと思っていたのに、年末年始ぶっ通しで忙しかったせいでそれが叶わずに一回目を視聴しました。一章に比べてするりと入ってしまって「あれ?HFこんな感じだったっけなぁ」という疑問が浮かび、急いで一章を見直してPC版ヘブンズフィールをプレイして二度目に臨みました。
その上で二章を見た上で感想を総括すると「第二章、桜のPVとしてはとても良いが、ヘブンズフィールの映像化としては欠け落ちたものが多すぎて三章に不安が残るが、それでも良い映画だった」です。
まず大前提として私は完璧なメディアミックスなんて存在しないと思っています。媒体と客を変えた時点でものは変質するからです。どれだけ二章が頑張ってもそれは逃れられなかったのだな、と感じました。そもそも原作で一番長いルートを6時間で収めようというのが難しかったんだろうと。
桜は前2ルートのヒロインと違って、重い過去に苛まれ苦しみながらも士郎を慕う普通の少女です。原作者の発言を借りるならば「型月界では、愛をとるキャラはみなヤンデレります。凛とか、愛より正しさをとるでしょ。セイバーも。桜はほら、愛をとるでしょ。きのこはほら、ゲームをとるでしょ。」凛とセイバーは正しさを取る強い子ですが(ヤンデレかはさておき)桜は、愛を取ります。また、具体的な原因はともあれ桜はこの3人のヒロインの中で当時一番人気が低いキャラクターでした。
(はっきり言って時代が変わったので、むしろ今の時代は桜の内向さがこそウケるのでは無いかと思うんですけどね)
原作から大きく取り除かれた要素は「言峰綺礼のバックボーンについて」「凛とイリヤの共同生活」「桜の内面描写」の3つ。
「言峰綺礼のバックボーンについて」は後半言峰が活躍するシーンで補足してスマートに済ませるのかな、という感じもするので置いておきます。そのせいで言峰、桜の治療に魔術刻印使うめっちゃ気のいいおじさんになってないか?まあそれはいいんだ。
「凛とイリヤの共同生活」「桜の内面描写」についてです。正直、これを削ったのは尺の都合上仕方ないのかもしれませんが三章でしわ寄せ来てしまわない?という不安があります。
原作を再プレイして再確認したのは桜の独白Interludeが非常に多く、その中で桜の内面描写が事細かに描かれています。この内面が「私は悪い人」と桜が自罰的になる所以でもあります。先輩が自分のものになって嬉しいが、自分のものになったからこそ(姉に)奪われるのが怖い。凛とイリヤとの共同生活で少しずつ追い詰められる様も含め、この内々に秘めた桜の感情が爆発して後の暴走状態に繋がります。
慎二を殺したとき「自分は殺すことを楽しんでいた、もともと狂っていたんだ」と積み上げたはてに内なる毒の存在に気づいて堕ちるわけです。
(2004年,TYPE-MOON,『Fate/stay night』より)
ところがまあ、映画はどうだろうか。
ギルガメッシュに襲われるシーンでは桜は意識的に「ここで死んだら姉に士郎を取られてしまう」という自意識で立ち上がりますが、映画では夢遊してる無意識下で行われます。その他凛と接するうちに内に湧き上がりラストのバトルへと繋がるような凛への嫉妬が土蔵のシーンくらいしか描かれておらず、憧れといった正の感情のみが強く描写されていました。
(ところでこの土蔵で凛が高跳びの話をするのは一章で土蔵で同じ話をする桜と対構造になっています)
「自分はどうなってもいい、だが士郎だけは守りたい」という聖母像ばかりがクローズアップされて、映画の中ではしきりに自罰的になる桜の「悪いところ」が見えづらくなっているように自分は感じました。というかほぼ意図的に削ぎ落としていると思います。
例えば凛をかばう士郎で疎ましい顔をするだとか、藤村と話すときに士郎が自分のために戦って傷ついてしまうことを嬉しいと感じる自分が怖い…といったように挟み込み方はあったはずなのですよね。
監督が桜好きゆえにその悪性を削ぎ落としてこの映画を作ったのかもしれないし、もしかしたら絵コンテ段階ではあったけど尺の都合で消えた部分かもしれないですが足し算引き算して残ったものが今世に出ているものという事実は変わりません。
ゲームをアニメにするとき、必然的に引き算になるわけですが、たぶん桜が好きな監督だからこその引き算箇所で普通くらいの人なら迷いなく桜の負の感情は入れると思います。なぜならそれが最後の姉妹喧嘩に繋がるから。
もちろん全三章だから残りを見てみないことにはわかりませんが、雪降ってる中外で待つ桜といい正直そこまで考えてカットした部分じゃないだろうなぁ…とも、好きが高じたオタクが作るオタク作品ゆえの悩みですね。贅沢な悩みだねこれ。
でも正直三章の走り出しが町の人をミンチにするスプラッタシーンから始まったら今全部書いた項目どうでもよくなるんだと思うのでやっぱり三章出てみないとわからないというのは口酸っぱくいいます。
三章楽しみにしてます!!
あと結構強気に書いたけど間違ってるところあったら勉強中の身ゆえ許してほしい。おしまい。