ミッドサマーをなるべく真面目に考える―最後の笑顔はざまーみろの笑顔ではなかったんじゃね?―

どうもよるとりです。ハッピーミッドサマー。

公開日のレイトで即即見に行きました。
これ大喜利始まる前に書きたかったな。
それにしても尻が痛い映画だった。
へレディタリーのネタバレとかも入ってるから最低でもへレディタリーとミッドサマーは見てくださいね。

 


自然豊かな北欧×おどろおどろしい奇祭の出会い

 

やっぱりこの映画の座組の時点で「勝ってるなぁ」と思うのはここです。
金田一とか人身御供とか……はっきり言って奇祭を日本人は見慣れてますけど、キリスト教徒が多いであろう(今はそうでもないのか?わからん)アメリカではさぞかしインパクトが強いでしょう。もうポルノハブで「エロティック 北欧美女」とか検索できないんじゃないでしょうか。
北欧と奇祭については「ウィッカーマン」という映画がオマージュされているそうなので、機会を作って見てみたいところではあります。


アリアスター監督の恐怖演出について


自分はショートフィルムの方は全部見れておらず、「へレディタリー/継承」と「The Strange Thing About the Johnsons」のみ見ています。

「The Strange Thing About the Johnsons」については、面白がっちゃいけないんですけど親子のゲ○レイプと逆シャイニングパロが面白いしyoutubeで見れるから見てきてほしい。


へレディタリーは特にそうなんですが、現実ではありえないカメラワークを使って恐怖演出をするのがこの監督、うまいですよね。へレディタリーは冒頭シーンからぐにょ~~~~~~んとミニチュアサイズの家にアップしていって、それが主人公たちの家で……という異常な俯瞰を用いたカメラワークは、後半実はパイモンの玩具でしたという真相にも繋がる演出にもなっております。とにかくこのカメラワークが気持ち悪い。

 

似た演出がミッドサマーにもありまして、ヘルシングランドに行く途中の車で地面に対して扇状にカメラが動いてぐにょ~~~~~~んと最終的に上下反転して車を映す演出が兎に角不安を煽ります。今まで見たことない不安の煽り方をしてくるんだよな。

 

また、光についてもへレディタリーではパイモンを表現する恐怖演出でも用いられています。廊下をすーーーっと照らす光とか。今回では逆に暗闇をほとんど作らない、というある意味斜め上の光の使い方をしてきます。
ただ、冒頭の家族の無理心中自殺シーンで扉から漏れ出る怪しげな光はまさにへレディタリーの使い方なので、やっぱこういうのもうまいね。

 

ホルガについて


カルト映画にしては本当にこの辺の作り込みが凄いです。それがこの映画をただのカルト映画ではないものにしているんでしょうね。
舞台美術の絵画から、服、壁、ありとあらゆる物、そこらじゅうを彩るルーン文字。とにかく情報量が多いので、自分も感想を見ていてから気付いたものも多いです。特に冒頭シーン関連。
架空の村ですが、「姥捨て山的な崖」とか「血の鷲」とか微妙にちゃんと実際にあの文化圏であった儀式を用いてるの、質悪いなって……。
(血の鷲は誤訳で本当はやっていなかったのではないかという説もあるそうだが)

 

ホルガに生きる人はホルガの善とホルガの悪ので生きている人たちなので正直映画で書かれてる以上に言及する事はあんまりないですね。はい。

 

主人公と大学生たちについて


アリアスター監督は自分の辛い出来事を昇華させるために作品を作っている、という背景を自ら語っています。
今回は「失恋したからこの作品を作った」という発言がされており、一見してダニー=アリアスター監督、最後は自分の事を理解してくれない彼氏とサヨナラしてニッコリ!というエンディングに見えますよね。
個人的になんの根拠もないですがダニーだけではなくクリスチャンも監督のパーソナリティーの一部を持っているのではないか、とも思います。これはマジ確証もなにもないです。

 

正直、これでもかとクリスチャンが悪者に描かれていますが(実際クリスチャンはクソムーブするけど)ダニーも大概にクソ女として描かれてる気がします。
まず大前提としてダニー、彼女が頼るべきは彼氏じゃないですよね。普段から眠れないならまず薬を飲むべきだし(冒頭では飲んでたけど)そもそもなんで旅行に行くのに自分の睡眠薬持ってないんだよ!!
家族の自殺があった冬から最低半年もあったのならば、例えばへレディタリーのママのようにグループセラピーに通う時間もあったはずです。行ってる設定なのかもしれないけども。
いくつか知らんけど良い年ならきちんとメンヘラ脱却するべきなんですよ……これはメンヘラの自虐と自省を込めています!はい!

 

何が言いたいかというと、この映画ダニーに視線を寄せすぎると見えるもん見えなくなるよね、という話です。

他3人については、ジョッシュは博士号なら必死になるのまあわかるしマークは……もうちょっと存在感欲しい……クリスチャンは、概ね微妙なキャラですが妙に手触りのあるクソさがいいですね。「あんたも私のこと置いてきそうだよね」と手触りのあるクソ女するダニーとお似合いです。日本人には割れ蓋に綴蓋というすばらしいことわざがある。多分それ。

 

ラストについて思うこと


まず、ダニーの笑顔について。
ダニーは最後に村の人間とクリスチャンを天秤にかけ、生贄にクリスチャンを選びます。これは村の人間に後押しされたダニーが、自分のことを捨てて女とセックスした報いよ!!ざまあみろ!!といった笑顔なのではないか、というのが現状通説ですが、色々考えていてちょっと違うかもなーと思ったので書いておきます。

 

(メイクイーンのその後についてはさておき)ダニーはあの後、ホルガで望まれた役割をこなして幸せに生きていくのだと思います。ダニーは儀式以降、殆どセリフが無くなりますよね。そのせいで心情が見えなくなっていくので、これは割と意図的なものなのかなぁと思います。

 

さてさて先程の通説だとダニーは、中途半端に俗世の世界観を持ったままホルガに迎合したということになるわけです。自分はちょっとそれ違うんじゃないかなと思うわけです。ダニーが悩み、求めていた傷口を埋めてくれたホルガというコミューンは、そんな程度のものじゃないはずです。あれだけの悲しみを背負ったダニーにとって、ホルガは第二の家族で、世俗の価値観なんて不要になるわけですよ。

 

ホルガにとって、大祝祭のフィナーレを飾る生贄は大変有意義なことです。志願した二人も大変名誉だと言われています。つまりは、ホルガのコミューンの一人として、好意を持ってクリスチャンを生贄として選んだという可能性です。
理由として色々考えられますが、クリスチャンはマヤと契り、閉鎖されて近親相姦の危険がある村の中で貴重な外の種を齎した男です。散々ああして泣いた後、ホルガの一員になるならあの儀式を肯定する必要があるはずです。肯定して、彼を好意的に生贄に選んだ。こうとも考えられないでしょうか。
(あくまで一回通して見たきりの私の考えなので違うかもしれないです!!)

 

あの笑顔は、一度は恋人だった男がホルガに命を返したことにホルガの一員として満足した笑顔じゃないのか、という話です。

 

 

二つ目は最後に捧げられたイングマールたちの慟哭。
これも通説としてはホルガを通じて今まで自分が信じていたものが嘘だった事に気付いたのでは?という慟哭とされているんですが、ホルガの一員として生まれ変わるダニーの前振りとしてこれをいれる意図ってなんでしょうね~と色々考えました。
でもアリアスター監督はかなりホルガを作り込んで考えていたようなので、別にホルガを悪だとは描いてないんですよねえ。
何より彼ら彼女らは幸せだしあの共同体が解決すべき問題なんて描かれてないんですよ(大量移民反対とかは書いてあるみたいだけど)
ところが私達の共同体は、自治体、都道府県、会社、国、家族、いろいろ単位を切り分けても何かしらの問題点はあるわけです。でもホルガにはない。ホルガは、劣った社会なのか?という問い掛けでもあるんじゃないかなと。

 

別に私たちだって共同体を勝手に信じて期待している部分はあるし……何よりホルガは「決められた役割をこなせば一員として認められる」という部分は別に今の社会もなんら変わらないですからね。
別に誰が誰の為に今の共同体を作っているかはどうでもいい、大事なのはどの嘘を「本物」として自分が信じるか。
イングマールたちの慟哭とダニーの笑顔、セットで存在するのはそういった意図が若干あるのかなぁ~~~~と思いました。はい。
(これ、適当に無宗教な日本人だからそう思えるかもだけど信心深い方から見たら変わるのかもしれない。わからん)

 

トリック私も好きだしネタとして絡めて楽しいのはわかるけど、お話の起点終点はダニーとクリスチャンの二人なわけだし、もう少しそっちも見てほしいですねぇ!以上!
なんか思い出したら追記します。