「冥界のメリークリスマス」感想。エレシュキガルという女神について考える

 

目次

 

1.初めに

 

率直に言って私はエレシュキガル、可哀想な女神だと思います。ですがそれはエレシュキガルという陰気な仕事を押し付けられた女神が可哀想ということではありません。それをこれから書いてきます。このイベントが終わってからずっと疑似サーヴァント、エレシュキガルという存在について考えていました。まず大前提として、

 

遠坂凛という人間のキャラクターがいる

・エレシュキガルという神様がいる

FGO以外の時空では当たり前だがエレシュキガルに凛の要素は混じらない(以下、この通常エレシュキガルを便宜上神エレシュキガルと呼びます)

FGOのエレシュキガルはFGOの時空でしか発生し得ない

 

という四点を念頭においてください。

 

2.Fate世界の神とは

 

Fateの世界において神とは何か。明確にこれ!という定義が無いまま疑似サーヴァントとして神が描かれているのがややこしくしているんだろうなと思います。現状出ている情報は大まかに並べると以下です。

 

・(多神教の場合)それぞれに役割があり権能と呼ばれる人から見たら規格外の力を用いる

・おそらく元は人の形をしていない(マテリアルのオリオンのイラストレーターコメント曰く)

・神の倫理観があり人間は割りとどうでもよいが、人間に信仰されることが神の力なので信仰する人間が消えても困る

 

 

3.エレシュキガルという女神

 

エレシュキガルは、7章メソポタミアの巫女の手によって遠坂凛依代としてイシュタルと共に召喚されました。これによってイシュタル、エレシュキガル両女神に人間の要素がまじりました。

イシュタルは元の人間の要素は三割、依代となった少女は相性が良い、と話しましたがではエレシュキガルはどうだったのでしょう。おそらく、あまり良くないかイシュタルほどでは無いんじゃないか、と思います。

 

個体

神エレシュキガル

遠坂凛

エレシュキガル

ハード(能力)

人間

ソフト(内面)

人間

人間(ないし人間+神)

 

すごいざっくりと表にしてみました。

神エレシュキガルは、神の体で神の権能を奮い冥界の女主人としての役割をこなします。遠坂凛は人間の体で人間の魔術師として生きたキャラクターでした。

ではエレシュキガルはどうなのか。

権能としては神のまま(少なくとも七章時点で)ですが外見的特徴として遠坂凛というキャラクターの影響を受け、ソフト面で遠坂凛を通じて人間の倫理観を得ました。ここ、すごい重要です。

神という役割をこなすのに人間への倫理観は必要ありません。どう考えても余分です。

それでもエレシュキガルは神エレシュキガルと同じ役割をしなければなりません。まず召喚された状況下で人間を守ろうという意思から彼女はまず三女神同盟に与しウルクの敵として静かに人を守ることを選択しました。その他バビロニア後半に女神の禁を破る重大な冥府の契約違反をしたことで今回のイベントに繋がります。

 

4.本来のエレシュキガル

 

「ほう?耳障りな羽音がするかと思えば、

憐れな女神がいるではないか。」

「私の爪先にも満たぬ姿でよく鳴くものよ。

どれ、一息に摘んで潰してやろうか。」

 

「……私は貴方たちの知るエレシュキガルではありません。

失墜した冥界の女主人です。」

「遠い異邦からの魔術師よ。

その痛快な冥界下り、確かに見届けました。」

 

七章の大型ガルラ霊として現れたエレシュキガルと、冥界のメリークリスマスにて顔の腐り落ちたエレシュキガルの台詞です。

前者は居丈高な女神の、後者は丁寧語でどちらもなのだわ等特徴的なエレシュキガルの口調とは打って変わっています。これらの台詞にはどちらもエレシュキガルの通常使われている立ち絵は使われていません。この演出からおそらく、神エレシュキガルから出た発言と仮定します。

神とは多面的なものであるというのはこのイベントや他のイベントでも描写されています。なので、口調があからさまに違うのは特にそこを描写したいのでしょう。

そしてどこから遠坂凛の要素が混じったのか切り分けるのは困難を極めますが、この2つの描写から「違う世界に憧れを抱いているが、自分の役目に真面目」という部分はおそらく神エレシュキガルにも備わっていたと思われます。ギルガメッシュも言ってましたね。

たぶんですが人間を愛していたというのも神エレシュキガルの頃からあったのではないかと思っています。ただ、神エレシュキガルはあくまで神の倫理観に生きているのでそれが語る「愛」はおおよそ人間の言う「愛」とは程遠い、ということは似たような指摘がオリオン(アルテミス)の幕間でもなされています。

 

 

5.FGOエレシュキガルという存在

 

神エレシュキガルは疑似サーヴァントとして人間の倫理観が混じり合い、抱いていた「愛」はダウンサイジングされ比較的人間の理解できるものになりました。同じ状況にいたとして、エレシュキガルではなく神エレシュキガルが七章以前のメソポタミアにいても同じ行動は取らなかったのではないかと自分は思います。

つまるところ遠坂凛、人間の倫理観が交じるということは指向性を持つということになります。

 

「それが私の選択。

女神エレシュキガルが選んだ、初めての自分の意思。」

 

「この記憶が貴女にとってかけがえのないものなら、

貴女もきらきら輝くはず。」

「いと気高き冥界の女神よ。

かつての貴女は、太陽というものを知らなかった。」

「輝けるものを知らなかった。

自らの憧れを知らなかった。」

 

 

神エレシュキガルはエレシュキガルとなることで初めて自分の意思で選択するという指向性を得ました。具体的に同じ人物を依代とした姉妹神であり別側面(とFateでは描かれている)であるイシュタルやカルデアの人間たち、主人公を見て輝けるもの、自らの憧れを知りました。

 

「私は気の遠くなる時間、ここで死者の魂を管理してきた。

自分の楽しみも、喜びも、悲しみも、友人も―――」

「何もないまま、

自由気ままに天を翔る自分の半身を眺めてきた。」

「その私に罪を問うの?

今さら、魂を集めるのは間違っていると指さすの?」

「ずっと一人で―――この仕事をこなしてきた私の努力を、

誰も褒めてはくれないの?」

 

当たり前ですが神エレシュキガルがエレシュキガルとなったのは七章バビロニアの少し前からです。この記憶や冥界のメリークリスマスで語られているような過去はエレシュキガルが語っていますが、その実神エレシュキガルが機構としてこなしていた事実を、エレシュキガルが過去として省みた事実から出た感想となります。ですがそれは偽物ではなく、紛れもなく彼女が持ち得る本物の記憶なのです。本来の神エレシュキガルがどれだけこの抑圧した感情を抱いていたか、流石にわかりませんが。

彼女が語るように人間の倫理観からしたら、それはもう寂しい寂しい時間だったと思います。だからこそぐだに「エレシュキガルは、悪くない」と言わせたかった、同意を求めました。

 

エレシュキガルという女神は、神の権能を持ち神の役割を持ちそれを行いながら、偶発的に得てしまった人間の倫理観、依代となる人間の持つ指向によってロジックエラーを起こしていました。ハードは女神なのに、ソフトに人間という不純物が入れ混じったから。

 

イシュタルは依代の少女と意識は溶け合い全く新しい女神になったが、これもひとつの自分と受け入れました。もともと彼女には戦いの女神、豊穣の女神という矛盾する側面があったからロジックエラーに適応しやすかったんですかね。

しかしエレシュキガルは、冥界の女神という機構に合わせて生まれた精神には遠坂凛という少女のカタチは眩しすぎたのでしょう。冥界の女神という役割に最適化されたソフトに、人間の倫理観、寂しさは必要ありません。そうしてその不純物は七章後、エレシュキガル自身の手で切り離されました。

 

 

6.エレシュキガルが切り離そうとしたもの

 

「自らに与えられた責務。それを嘆くことはよい。

放棄して違う道を探す事もよい。」

「だが―――逃げずにこなし続けた己が責務を

卑下する事は悪であり、」

「その苦しみを賞賛する事は、

何より貴様自身への侮辱に他ならない!」

「賞賛されるべきは貴様のなした偉業!

貴様の心の苦しみは貴様だけのもの。」

「他人である以上、貴様の傷は理解できない。

だがその仕事は尊敬に値する、と……」

「○○は、おまえにそう言ったのだ。」

 

「……そうね。女神の誓約を破った私はこの依代

失って、もとの陰湿な私になるつもりだったけど……」

 

彼女は冥界のメリークリスマスで依代となる遠坂凛を切り離し、役割、機構の具現化である神エレシュキガルに戻ろうとしました。

それは神エレシュキガルではないエレシュキガルが、エレシュキガルとして過ごした日々、バビロニアで主人公と語り合った夜、人間的倫理観で弱音を吐いて主人公とギルガメッシュに正され賞賛されたエレシュキガルという不要物が混じり歪な、それでも成し遂げた女神という自分像を自ら否定する行いに等しいのではないでしょうか。本当にエレシュキガルに対して失礼だったのは主人公じゃなくそれを行おうとしたエレシュキガル自身なのではないでしょうか。

 

「でも、それでもいいわ、私。

私は『今の私』が好きなんじゃなくて、」

「あの人間の在り方が気に入ったのだもの。

アイツが変わらなければ、それでいい。」

「それに、アイツが私を覚えていてくれるなら、

必ずまた会えるわ。」

「それを知っているから、私はここで、

私の全てを投げ出せるのよ。」

 

神にとっての不純物を切り離したことで彼女は最後に自分が望んだ願いさえも忘れ去り、因果なもので自ら忘却の疫病を飛ばしてしまいます。マーリンが言いましたけどなんとも悲しい話です。

少なくとも主人公だけは、エレシュキガルと二人きりで過ごした夜の思い出があります。それをかけがえ無く思えばこそ、捨て去ろうとするエレシュキガルの陰気さ真面目さには一言小憎い小言でも言ってやりたくなるのが人間というもので、そこから出たのが「冥界なんてどうでもいい」だったのではないか、と思います。

エレシュキガルがエレシュキガルとして行ってきた崇高な偉業を、思い出を、冥界のために消してしまうのか?という問い掛けなんです、多分ここ。

 

逆にこれを否定するとなると「エレシュキガルは役割がある。その役割に不要な依代の混じったエレシュキガルは殉死して然るべき」という風になるのでこっちのほうが畜生度高いです。

ただ物申すマンしにいった主人公が、何か策があった訳では無いんですよねって思うとあの時ドゥムジが記憶持ってなかったらどうするつもりだったのかはまあ謎です。ちょっとご都合主義だなと思うのはここくらいですかね。

 

 

7.エレシュキガルは可哀想か

 

そもそもとして役割の化身である神に人間の倫理観が混じってしまったことがどうしようもなく悲劇で、エレシュキガルの何が可哀想かといえば、イシュタルとの連鎖召喚によって人間の依代を得てしまったことではないでしょうか。

けれども偶発的な事象とはいえ人間に近い一面を獲得した彼女は、そのおかげでカルデアの力となりバビロニアを救うことが出来ました。彼女がいなければティアマトは倒せませんでした。

(偶発的に人間らしさという不要物を得てそれが話に繋がる、というのはアルクェイドに通じるところがあると勝手に思っています)

 

疑似サーヴァント、エレシュキガル。

他の世界では存在せず、運命のいたずらで発生し、あやふやで不確かな存在。ですが彼女なくして人理の修復は不可能で、ぐだにとっては大事な旅の思い出の1つです。そんなエレシュキガルが自己否定し消え行く中で、プロローグでマシュの手を取ったように、アルテラと共にエレシュキガルの手を取りに行き、「神エレシュキガルではなくあの時のエレシュキガルのままでいてもいい。君が捨てようとしているものは不要物ではなく、君と自分にとって大切なものだ」と肯定しにいく。…というのが「冥界のメリークリスマス」というイベントなのではないでしょうか。

 

「どんな冒険を過ごしても、他人に染まらず、

自分の感じた正しさを信じられるアナタでありがとう。」

「ええ―――私にはそれが、

どんな高価な贈り物より嬉しいのです―――」

 

不肖ながらエレシュキガルの言う主人公の正しさが何なのか、この文章で伝わるといいなと思います。

 

 

余談。

実はこのイベント最初にクリアした時、情報量はあるけどそんなに面白いシナリオだとは思えませんでした。おそらくそう映っている人は少なくないんじゃないかなとは今も思います。

不満点として、おそらくきのこないし開発陣のこだわりとして本当に一年後にこの話を持ってきたことでユーザー側の七章やエレちゃんに対する熱が醒めきってしまったこと。サービスインからいたアルテラがFGOでメインになるのに、エレシュキガルのオマケ扱いだったこと。(月にまで言及して繋げるのはFGOでアルテラを描くことを放棄しているとも取れるなーなんて)(そもそもとしてここまで書いといて砂をかける訳じゃないんですがアルテラはEXTELLAのショックがあってそこまで好きなキャラじゃなかったんですよね…好きな人はごめんなさい…今はそんなじゃないです)

でもなんでサンタがアルテラかって、やっぱメソポタミアの神々に喧嘩売りに行くなら彼女以上に適任なサーヴァントはいないんですよね…実際…。

 

ネルガルや原典との違いについては、スタート地点が原典だとしてもそこに創作、フィクションを混ぜるのが創作物ひいてはFateの面白さなので特に私は気になりません。ネルガルについても、神でなくても人や英霊は多面性があり角度を変えれば万華鏡のように違う一面がある、というのは奈須きのこ先生の持ち味のひとつですし。

契約結婚だなんて言ってるけどそもそも神は先述のように人間のカタチをしているかかなり怪しいですし、そんな概念の塊みたいな存在の結婚という価値観をそもそも人間の価値観で語っていいのか?みたいなところが個人的にあります。あくまでギルガメッシュからの評価でネルガルとエレシュキガルの関係において契約結婚というのは全ではなく一であり、ドゥムジが語った友という評価もこれまた全ではなく一なんだと解釈してます。

 

エレシュキガルに対して人間扱いをするのは不敬だなんだとの声もありますが間違いなく最低でも推し量るにイシュタルと同じく3割は人間が外見と中身に入り込んでしまったモノなので、その影響は少なくないんじゃないかと思います。

3割、割合として少なく見えますが、仮に液体で例えるなら塩分濃度3割って海水の10倍であの有名な死海クラスです。ガソリンに水を混ぜて3割水になったら本来の用途として使い物になりません。(ならないよね???)

3割ってこうして考えると大きいです。

なので人間の倫理観が混じっているのだから人間扱いするのは悪いことではないし、かといって神扱いするのも間違っては無いのではないかなぁと思います。

 

ただやはりマーリンの行動や台詞なんかに2部を思わせるものがあってワクワクするしいろいろ忘れてるからバビロニア読み返すか…と、読み返して、疑似サーヴァントとは何なのか、等々考えて自分なりに飲み下せたのでなんとか言語化しました。

誤字脱字あったらごめんなさい。これを読んで、冥界のメリークリスマスの見方がよいほうに変わったよって言って貰えたらほんのちょっぴりうれしいです。

 

以下絆礼装文についてのネタバレです。

FGO世界でのエレシュキガルは神エレシュキガルではなく、主人公に救われたエレシュキガルの身のまま神代の終わりを迎えます。運命も役割もそう大きく変わらない、けれど最後にエレシュキガルが見たもの感じたものが絆礼装のテキストとイラストに描かれています。気になる方は是非検索してみてください。